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三日坊主ですので、不定期更新ですが・・・思ったことを思ったままに書き綴ります

<原爆被災の私の体験> 『ピカときっぽ』 (71年前の8月6日のこと) [いろいろ]

つい先日、仕事で広島まで行く機会があり、71年前に広島で被爆をした時の父の足跡を辿ってみました。
(あくまでも休憩時間、定時後を利用させて頂きましたが・・・)
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また、最近原爆ドーム近隣で某有名ゲームでモンスター出現スポットが設定されるなど(作った人は悪気はないのだと思いますが・・・)その記憶が軽視されているような気がして、できる限り風化させてくないので、この場をお借りして、父が生前家族に残してくれた手記を再タイプし、掲載させていただきます。(個人名も出てきますし、誤植などありますが、あえて手記のまま記載させていただきますが、関連に合わせ写真のみ挿入致しました。)
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『ピカときっぽ』  <原爆被災の私の体験>

 昭和20年8月6日午前8時15分、今朝も既に真夏の太陽が高く上がり暑い1日が、始まろうとしていたやさき、写真のフラッシュのマグネシウムを焚いた様な、ボオーと言う鈍い爆発音と、極めて明るい閃光が、窓一面を走り・と同時に広島工業専門学校の数学教室に居た私は、机の下敷きとなり、失神していた様である。
 3月大阪上宮中学校(旧制)を戦時体制により1年繰り上げ卒業し、広島工専へ入学し、知り合いが下宿している、広島打越町の桑原さん宅へ転がり込んで、4か月経ち漸く広島の地理を覚えた頃である。
数え歳18才であるが満年齢は16才と9ケ月であった。
入学したのは、広島工専の技術員養成科で夜間授業で1年課程であった。
昼間は伊藤教授主宰の数学教室に勤めた。教室は理学博士号を取得された先生を頭に内藤助教授、2部の学生である田上助手、女性の正木さん(広島文理科大学の教授の娘さん)などの人がおり同時に雇われた保田好博君と私の、6名であったが、実はこの他の場所に研究員、計算員等、約15名がおられた。
 研究員は、九州大学理学部の学生さんが学徒動員されて来ており、哲学者の様な顔をしていた瓜生さん・物に余り頓着しない様な栗原さん達5名程と、計算員では18〜20才位の地元の女性達が10名程雇い入れられていた。アメリカ生まれ2世の山城さん・海軍艦政本部の大佐の娘さんである西野さん達で、もう1人公用腕章を巻き毎日来校して居た陸軍2等兵(名前は失念した)の方がおられ、学校で助教授をされて居たが、赤紙で陸軍に召集されて行ったものの上官が「一人ぐらい居なくても戦争の勝敗に影響ない学校へ行って皆と一緒に研究せよ」との事で、当時としては物分かりのよい軍人だと先生たちが話しておられたようだったが総勢22名の大所帯である。
 先程アメリカ生まれ2世の方のことを書いたが、昔渡米の「ひと旗組」は広島・和歌山・沖縄出身者が多いと聞いているが、帰国した人は巳斐方面で瀟洒な家に住んでいた様だ。
何でこんなに沢山の人たちがいたかというと、当時は体制がすべてお国のためとなっており、教室もご多分に漏れず電波探知機の開発を海軍より委嘱・協力させられ、教授を中心として、総力を上げて取り組んでいた様で、開発は数学・物理教室共同で、九大の学生さんたち研究員が、設計の基礎数値を算出すると、計算員が計算機を回し答えを出し研究員に報告、といった繰り返しであった。
 今でこそコンピューターというとこだが、当時はそんな気のきいたものがあるわけがなく手回しのタイガー計算機がすべてであった。
 電探兵器は当時、軍にとって必要不可欠であった。第二次世界大戦(太平洋戦争)緒戦で夜戦・夜襲の得意な日本軍はずいぶんと成果を挙げたが、連合軍の電波兵器の出現で、得意の夜討がレーダーに妨害され、思う様に成果を挙げられなくなって居たのである。
1つの数値が完成すると、隣の宮西通可教授が主宰する物理教室に持ち込まれ、モデルが製作され、更に実験室でテストをするといったことが繰り返された。
一度実験を見たが、試作品のテストは、3メートル位の模型の船を、学生さんたちが担いで前を走って往復するという、極めて原始的な方法だった様に覚えている。
200坪(660㎡)位いの実験室には、底の浅いプールが設置されて居たし、船の模型も沢山置かれていた。当時余分な人は居なかったし、訪れる人も少なかったが、当然立ち入り禁止となっていた。
 当時の食生活は如何であったかというと下宿では、米に大豆粕を混ぜたものとか、大根を混ぜた物が主食で、外食では行列に並び漸く、シャブシャブの薄いお粥(すいとん)にありつけた位で、まともな銀シャリには・・夢のまた夢・・ありつくことができなかったが幸い昼は軍の仕事をしていることで食事は支給された。下宿代がいくらだったか、教室の給与はいくらだったのか覚えていない。
変な話、軍支給の昼飯ははじめのうちは、下宿と同じ様に、米に大豆粕を混ぜたものであったが、敗色がだんだん段々濃くなるに従い、代用食に化け、最後には「江波パン」なる怪しげな物も登場してきた。もちろんまともな名前ではない。「江波」は・エバ・と読み市内での地名の海岸で採れた海草をメリケン粉に混ぜて膨らせたパンで、パン工場は勿論江波にある。先生たちはあまり文句を言わないが、量と質では学生さんたちはブツ・ブツ行っていた様だったし、誰言うとなく「江波パン」とネーミングされ、ターサカさん又、エバパン?といっていた様だった。
 考えて見ると、今年中学を卒業した16才くらいの私にしろ保田君にしろ何の役にもたつわけはない、女性計算員の使う計算機の分解・修理をする事や、先程書いた昼飯を隣接する広島文理大へ、リヤカーを引いてもらいに往復する事くらいが主な仕事であった。
勿論その間は、教授より「早く勉強して研究員の仲間に入れ」と数学の本を渡され勉強させられたが、β・γ(ベータ・ガンマー)やΣ(シグマ)など代数・幾何が解る訳がないし、中学時代は3年生位から学徒動員で、防空壕ほりや、枚方市の陸軍砲兵工敞枚方製造所で大砲の弾造りをさせられたりで毎日が工場へ登校で、正直学力は2年生程度、体力だけは土方なみ・えらい教室へ来たなあと、心細くなったのである。
 タイガー計算機は15台位あったと思うが、よく壊れたので、仕事は結構忙しかった。
計算機そのものの機構は単純で、歯車の噛み合わせで数字をデジタル表示する仕組みだが総て手で回す。壊れるところは、落とさない限り、バネ・ネジの類であり小さい部品なのでそう苦にはならなかった。幸い私の生家は鉄工所を営んで居たので、比較的機械には強いし、保田君も技術屋さんの家であった様だ。
 ここで広島工専の場所について・・・
現在広島は区政がしかれているそうだが、当時はそんなものはなく、広島市千田町で市街電車・広電の電鉄前停留所を下りた所にあった。
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<広電 電鉄前停留所>

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<おそらくこのあたりで被爆したと思われます、現在は広島工業技術センターなどがあります>
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市内北寄り1ツ向こうは、日赤前停留所があり、日本赤十字の病院や広島文理大があり、それを更に市内中心へ行くと繁華街のある紙屋町・八丁堀そして広島師団のある広島練兵場・鯉城の名で有名な広島城や旧城主浅野候別邸・泉亭(縮景園)と続いた。
また市内を南へ行くと皆実町専売局を通り、緑町そして宇品港へと続いた。
東側には小高い丘陵の比治山を目の前にと言った、とにかく閑静な文教地区であった。
 もう4ヶ月も経ち、一通り地図も覚え、休日には大シャモジで有名な景勝地、安芸の宮島や、繁華街八丁堀の新天地にも足をのばした。敗色が濃かったが、映画館などは営業をしており結構賑わっていたが、食べるものはなかった。
僅かな給料ではあったが、両親にポートレートを送ろうと写真館で撮影したのも7月の末頃と覚えている。
 ・・・父・母のこと、今年3月故郷広島の鷺浦村(現三原市)で生まれた弟・貢二のこと、妹・和子や芳子の事が頭の中で、走馬灯の絵柄の様に回り「死」とはこんな事かと考えて居たようだった。聞いた話、戦場で兵隊さん達が死ぬとき「天皇陛下万歳」と叫んで息を引き取るそうだが、本当かな?と思って居る内に机の下敷きになっている私に気が付き、死んでいたのではなく、生きている・助かったのだと、思った瞬間、安全な場所を探さなければと考えたが、校舎の倒壊で飛散してきた窓硝子の破片で頬を切り傷口から血が流れており、傷の手当を先にと思い然し、今自分はどんな状況なのかも、サツパリ分からず、とにかく外ヘ出なければと、机の下から這い出し、廊下と思われたところへ出た途端、倒壊した校舎の2階から地上へ転落した。柱の5寸釘で突いたのか、右腕の血管から血が噴き出しており、また左足の甲からも何かで切ったのか血が出ていた。
校舎は殆ど倒壊していたが幸い出火していなかった、校庭に人影がなく、居たのに聞いたら「ピカッ」と光ったので、すぐ防空壕に飛び込み助かったと言っていたようだった。
ご多分に洩れずおそがけて、広島は警戒警報が多くなり、特に呉の海軍の軍港に停泊している軍艦や、海軍工敞で修理中の船舶や施設をめがけて、爆撃が激しくなりだした。
 そのうち広島市にも、空襲警報が頻繁に発令されるようになった。伊藤教室も、市内の北側で国鉄広島駅の裏方向の牛田町に分室を作り、2/3位の人はそちらえへ疎開して勤務していたので、お互いばらばらになりくわえて始業まえでもあったので、誰がどうなっているのか連絡のとりようもなかった。
 とにかく日赤へと倒れている校門をくぐり歩き出したが、途中崩れた民家の壊れた水道管よりチヨロ・チヨロ流れ出している水で、顔・手・足の傷口を洗い、シヤツを千切って血止めだけはした。気が付くと裸足で歩いており何か履物をと、爆風で飛んできたのだろう、靴とげたを拾いチンバに履いて、もう足に怪我をしないようにした。
 3月13日大阪大空襲で下宿していた叔母の家で焼き出され、衣服・教科書が灰になり着のみ着の儘で広島へ来たのに、又再び裸・・アーアー元の木阿彌に戻った・・になったなあと情けなく思った。
しかし、考えてみると今朝は如何なって居たのだろうか?午前7時過ぎ打越町の下宿を出て広電で学校へ登校してきた時は、警戒警報が出ていたものの空襲警報には変わっておらず、数機の敵機らしいのが高高度を飛行していたのには、気が付いて居たが、その当時は1機や2機の敵機はせいぜい偵察くらいと誰しも慣れっこになっており、電車なども普通通り走っていた。
ひよつとして学校の裏手にあった、中国塗料の倉庫から出火し塗料に引火したのかな、の程度しか考えられず、まして爆撃されたと言う意識は全くなかった。
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<千田町あたりの光景:広島平和記念資料館にて撮影>

 靴と下駄のチンバで、トボトボと日赤へと向かったが路上には既に焼死体がゴロゴロと転がっていたし、また焼爛れて停まっている電車内には、さらに多くの死体が累・累と重なっており、やはりこれは空襲で爆撃されたものだと思はざるを得なかった。
しかし、今まで嫌と言う程空襲・爆撃に出喰はして来たが大抵、かなりの編隊で飛来しており、今朝のように数機ではとても考えられない。そして瞬時にこれだけの破壊力のある物は何か想像もつかなかった。
日赤では、廊下といわず病室と言わず、怪我人や既に息絶えた死体が横たわっており、足の踏み場もない。その間を同じ様に怪我をしながらも治療のため小走りに走っていた看護婦さんなど、まともな体の人は居なかったと思う。医者は見当たらず、看護婦さんに治療を頼んだ所、医者が少なく薬も爆風でクシャクシャになっているので、急患の手当てが精一杯、応急手当はするが顔は縫合の必要があるし腕も処置しなければならない、歩けるのだから宇品港にある陸軍船舶隊の衛生隊へ行けという。 応急手当をしてもらい、今度は宇品へ向かったが足もとの下駄・靴を何とかしなければと、靴を探し回り見当たらないので死体の靴を脱がせて履きかえた。途中皆実町などを通ったが、死体が目に入る位で、不思議にその前後の光景は覚えていない。
死体は不思議と裸が多かった、これは真夏の午前8時過ぎのこと、在宅であれば朝飯か、戦勝の虚報の載った新聞でも読んで居たのかな、とかくシヤツ・パンツの生活の為かなと想像した。誠に気の毒に思えた。もっとも当時の在宅者は婦女や老人位のもので、働き盛りの男は、戦争に駆り出され戦場・あるいは軍需工場、女は男の職場であったバス・電車の車掌や、同じく軍需工場の工作機械を操作し、或いは飛行機のリベットうちなどであり学生や中等学校の生徒のうち高学年は同じく軍需工場へ、低学年は防空壕を堀りになど、1億総動員時代だったし、又小学校高学年は田舎へ強制疎開させられている等、都会にはオンナ・コドモ・トシヨリしか残っていなかった。
 宇品港へ着き、船舶隊で軍医を探したが見当たらない、衛生兵の腕章を付けた兵隊さんに手当てを頼むと軍医は重症者の手当てで精一杯、この向かいの似島へ行けという。仮設された診療所があり手当てを受けられると言っていた。そういえば船が軍人も一般人を問わずドンドン似島へ運んでいた様だった。
 しかし、下宿の桑原のおばさん・同宿で従兄弟の西内博美さん(電報電話局勤務)・消防署勤務の金田さんは?又伊藤教授や先輩達の安否も気になりだし、似島へは行かないと決め手当を頼んだ。階級章は確か軍曹だったと覚えているが、衛生下士官の人が麻酔もないし「痛いぞ」と脅かされたが頬3針・足2針の縫合と、右腕の手当てをしてもらった。
右腕はすでに血が止まって居たので包帯をグルグル巻きつけられたのみであった。
 麻酔もせずに5針も縫ったのに不思議に痛さは感じなかった。たぶん気が立って居たのだろう、いま考えるとよく我慢できたなあと思う。
(後日医者の話では麻酔をかけずに縫合したので、傷口にシワシワができなかったと言っていた様だった)
 再び学校のある千田町へ引き返したが学校にはもう誰も居らず、暫く休憩して、下宿のある打越町へ向かってトボトボ歩き始めた。
 市の中心に近付くにつれて、建物は殆ど倒壊し、焼けくすぶっており、水道管からチヨロ・チヨロと水が流れているのが印象的であった。依然焼死体は転がっていたが、朝から死体は沢山見てきており、もう何の感情も湧いてこなかった。消防署の前を通った時、制服の消防士が沢山倒れて居り、水・水とうめき声が聞こえ、コップで水を含ませてあげると、すぐ息絶えるなど、生死が見極められず、もしや金田さんがと見回したが、人の識別もつかず、まして自分もけがをしておりこれ以上は如何ともしがった。
 日銀前を過ぎ、紙屋町を左折、右手に広島練兵場にも転がっている死体を見ながら、太田川にかかる相生橋にさしかかったが、堤防と云わず川中にも沢山の死体が浮かんでおり、火傷の熱ための痛みを和らげるため、川に飛び込んだのだろう。
随所に焼け爛れた電車が立ち停まっており、車内には累・累として死体が折り重なり、爆撃の凄まじさ、爆弾とも焼夷弾をつきまぜた物の威力を?まざまざみ見せつけられた。
土橋を右折、北の横川へ向かって歩いた。午後5時頃だったと思う。
 下宿のある打越町は、国鉄山陽本線が裏を走っており、広電別院前停留所を下車した所にあり、太田川の支流天満川の土手に、へばりついて建っていた。
 桑原のおばさんが1人で、茫然として家の前につっ立っており、未だ誰も帰ってこないが、娘も西内博美さんも勤めている電報・電話局が新天地にあり、爆心地だと噂されているのが、その辺らしい。「多分駄目じゃろうね、いけんわね」とアクセントの強い広島弁で物悲しそうに、誰に言うともなくつぶやいているのが耳にこびりついている。
又金田さんも、生残っていても「努めが努めじゃし、当分帰れんじゃろうね」とポツリと漏らしていたようだった。
 私も消防署の前を通って帰って来たが、あの悲惨な光景を目にして来たところだし、「もうアカンやろう」と思ったが口にはしなかった。
 家は爆風で少し傾いて壊れかかっており、時折通る列車の振動でビリビリ響き、何時潰れるか分からない。危険であり、家の前の川原の土手で野宿する事にした。
 飯を炊くすべがなく、聞くと国鉄横川駅の方で、炊き出しがあるとの事、其処まで貰いに行く事にした。考えて見ると朝飯だけで1日過ごした訳で後は何も食べていない。
野宿は蚊が多く眠れたものではなかったが、何時潰れるか分からない家よりはましであった。漸く気分も落ち着き、夜空を眺めながら、長かった1日を思い出して、故郷は如何しているかな、生きている事を知っているかなあ?と思いながら自然に寝込んでいた様だった。黒い雨のことをよく言われたが、覚えていない。
 翌7日騒音で目を覚まし、炊き出しを横川へ貰いに行った。
炊き出しは、近郷の農家などの婦人会や消防団の人達が仕切っており、多分可部・可計町あたりから来て居たのだろう。物の無い時によくこれだけの米があるなと・・・感心したが、銀シャリと沢庵の味を噛みしめながら、アーうまい、先の事はともかく今、生きている歓びを感じた。固い米の飯はもう何ケ月も食べておらず、腹一杯喰った。
 しかし、そういえば此処へ来る道すがらいろんなものを見た。
自分が、身体中火傷をしており、水膨れが顔と云わず腕にも拡がっており、苦しいだろうに、夫でももう死んでいる子供を背負って茫然と歩きながら、生死を彷徨っていた婦人・転がっていた死体の手より、腕時計を外し盗んでいった奴・潰れた家の中を1軒ずつ丁寧に覗いていた年寄りなど・・・地獄絵さながら・・・人、様々だと考えたが、もう他人さんなんて・構う余裕はなかった。・・・早く郷里へ帰ろう・・・
「Bがピカを落としたげな」桑原のおばさんが広島弁で、ピカにアクセントを付けて話をしていたが、何処から仕入れて来たのか噂は迅いなあと感心した。
 朝の報道では、アメリカ軍の爆撃機1機が新型爆弾をを搭載して飛来し、広島を爆撃したと簡単なものであった。タッタ1発でこれだけの被害?新型ってなんや、驚いた。
 Bとは米軍の戦略爆撃機B29の事で、マリアナ群島のサイパン・テニアン島から飛来して来ていた。当時、日本の太平洋艦隊は海の要塞と言われた「大和」「武蔵」を始めとして多くの主力戦艦をミッドウェイ・沖縄海戦で失うなど制海権・制空権を、米軍に奪はれ米軍の太平洋艦隊が日本近海をうようよしていた。
焼夷弾攻撃・機銃掃射などは艦載機が航空母艦より発進・大空襲はマリアナ群島から爆撃機がと言った事である。マリアナ群島寄りの距離は2000㎞くらいであり遠く、又爆撃機は空中戦闘能力がないが、日本は既に防空力を喪失しており、空家に盗人が這る様なもので極めて簡単であったに違いない。
 又ピカと当時原子爆弾のことをピカドン呼んでいたが、これはピカッと閃りドンと爆発するので誰かがそういったらしいが、知っている限り広島の人は、憎々しげに「ピカ」とアクセントを付けて言っていたようだ。
 1日何もする事もなくブラブラしていた。家を片付けるにも、おばさんは腑抜けの様になっており、また荷物は自分の物と言えば精々リュックサックに入る程度、何もしなかった。
今日も、誰も帰ってこなかった。桑原さんは、娘2人の親子3人と、西内さん・金田さんと私の6人で、下宿屋のような事をしていた。
市内は既に、跡片付けが軍隊や消防団の人たちで始まり、軍のトラックが死体をドンドン積んで天満川の向かいの川原に運んできていた。もの凄い数で、降ろしては、死体を積上げて重油をかけて火をつけ荼毘に付し始めたが、風向きによっては黒煙がまともにこちらへ吹かれてくるので、その臭いは凄く飯など喰えたものではなかった。
 ただ、輸送隊の兵隊さんから貰った冷凍ミカンは、季節外れでもあり冷たかった味が、そんな中であったが美味しくわすれられなかった。
 8日になり昼になっても未だ誰も帰って来ないし、何時までもボーとして居られず、牛田町にある伊藤教授宅へ行く事とした。噂では牛田は被害が少ないらしいとの事である。
僅かの荷物を纏め、もし西内さんが帰ってきたら牛田へ行ったと伝言し、おばさんに別れを告げた。それ以降おばさんには会っていない。
 再び1昨日歩いた道を土橋・相生橋と逆に歩き始めた。
土橋・相生橋・紙屋町辺りは既に死体も片付いており、悲惨な光景は目に入らない様になったが、紙屋町を今度は右折せず、真っ直ぐ八丁堀・白島と陽が高く暑い中を、テクテク歩いた。
広島城の天守閣は崩れ落ちており石垣を残すのみであった。又、名園で名高い泉邸は立木が焼爛れ、幹のみとなって淋しそうであり、名庭園の面影はなかった。
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<被爆樹木:被爆地近くで撮影>

 歩きながら、先輩のことを思い出していた。
あの愉快で物に頓着しない栗原さんは?頭がいいのに忘れ物にかけては天下一品・ゲートルを落としてきては、女の子によくからかわれ、あそこの家の軒に「落とし物」と書いて吊るしてあったゲートル栗原さん?と言われて居たし、言い訳ともつかず口でブツブツ言いながら顔を赤らめていた。食事中、話に熱中すると隣の人の皿へ良く手が伸びたものだ。又神経質そうで几帳面・哲学者風の瓜生さん、体格が大きくスポーツマンタイプの安浦さん、煙草が好きで、臭い・くさいと伊藤教授から叱られていた田上助手、煙草の煙を下敷きで煽りだして、お前らも煽りだせとよく言われたものだ。もうその頃は物資は欠乏しており、煙草も配給となっており大人しか貰えなかったが、動員学徒は特配されており授業に帰ってきた時などよく貰ったものだった。
こんなことを考えながらトボトボ歩いていたらいつの間にか牛田の町に入っていた。
 牛田は噂どおり何故か壊れている家が少なく、暑い陽差しを受けた屋根が並んでいた。
分室へ立ち寄り皆の消息を聞いたら、怪我程度ですよと言われ安心した。安田君も歩いて居て閃光を浴びたが、手や首筋の露出した部分を火傷した程度といっていた。
教授宅では、先生が肋骨3本にひびがはいったそうで、安静にされていたが、奥さん・娘さんともに怪我がなく元気そうで、跡片付けされており、私の姿を見て元気で良かったと喜んで貰った。教室の皆さんも元気ですよと聞き安心した。
その日暫くすると父がリユックサックを背負い、息子の骨を拾いに来たと言ってやってきた、なんでも民間人の乗れる1番列車で郷里より出てきたようだ。
 郷里は勿論空襲など無かったが、広島の新型爆弾の話で持ちきりで、則幸・西内博美もアカンやろうとの噂であったそうな。西内博美は父の兄の子で、父の甥にあたる。
また、郷里は、広島へ沢山の人が出てきていた。軍隊へ入隊したもの、工場へ勤めているひと等で、各々が身内のことを心配していたそうであった。
 父と一緒に郷里に帰り傷の手当をしながら、15日の終戦を迎えた。
頬・足の傷はよくなってきたが、右腕の血管が膨らみ始め、手術が必要となり、竹原町の武内医院で切開手術し、血管を3cmほど取り除いた。
その後のこととなるが、広島での知人・親戚の人が原爆で亡くなった者は居ない。
下宿の人達も治療の為、似島などへ送られて居たらしいが、家に帰された様だった。
 学校は10月頃、今度は呉市の広町にあった旧海軍の施設を使って再開された。
8月6日以来のクラスメイトとの再会、授業は昼に変わった。
もちろん数学教室の研究員チームは解散・九大の学生さん達は元の古巣へ、計算員の女の人も夫々が家庭に帰り、平和とはなったがインフレに悩まされ、誰もがかつて経験した事の無い敗戦国の苦しい生活へと入っていったのである。
 広島・呉にも連合軍が上陸し日本を占領した、広島にはアメリカ軍・呉にはオーストラリア軍などである。
2世の山城さんが、通訳としてアメリカ軍のジープに乗り、広島市内を颯爽と走っていたのを良く見掛けたが、
他の人には出会っていない。
 又、原爆の後遺症だろう、男・女共に頭が丸禿になっている人を、可成り見掛けた。
男は兎角、女の人はネツカチーフで頭を隠して歩いていたが、気の毒であった。私は幸い切り傷のみで、毛髪は抜けなかった。
 俺は戦犯だと、事ある毎に言っておられた伊藤教授は間もなく、奥さんと2人で南米のコロンビアへ渡られ、大学教授をしていると息子さんから聞いた。
動員学徒であった研究員の栗原・瓜生さんはその後九大の教授になられたと聞き、私もほんの束の間の時間であったが、良い人達にめぐり会えたものだと、喜んだ。
 題名とした「ピカときっぽ」は造語と方言である。
 「ピカ」とは本文の中頃にも書いたが、ピカッと閃りドンと爆発した原爆のことを当時の人がそう呼んだ。
「きっぽ」は私の郷里・鷺島(現三原市)辺り芸備地方の方言で傷跡のことを言うらしい、私は大阪生まれで広島には3~4年しか住んでいない。言葉のアクセントはある程度使い分けられるが、方言・俗語はあまり知らない。しかし、「きっぽが残って」とか「きっぽが出来て」とか使われる。
 頬の傷のことでは、いろんな事があった。
電車などで「顔に墨がついてるよ」とよく言われたが「戦争の傷跡で男の金鵄勲章」とよく言ったものである。写真館で撮影したしたものは、焼き付けの時に修正されてしまうので頬に傷のある写真はあまりないが、素人写真ではクッキリ残っているものが多い。
ヤクザ・闇市でもそんなに怖い目に会っていない。
戦後の闇市はヤクザ・中国人・韓国人などが仕切っており、無いものはなく、金を出せば何でも手に入る所であったが、入り口で盗られた物が、出口で並べられて売っている、といった恐ろしい所であった。しかし敗戦後の混乱した生活に大きく貢献したのも事実だ。
 当時、広島は放射能の影響で、75年は草木も生えず、人も住めないと噂された。
何故ならばウラニューム235の放射能の半減期は7.13×(10×8乗)/年であり、永久に住めないといわれたのが噂の根拠らしい。
昭和21年3月卒業したが、もう一度学校へ行こうと考えたが、広島はいかんと皆に寄ってたかって猛反対され、今度は丹波・篠山の山家の猿ではないが、丹波の山奥・京都福知山にあった福知山工業専門学校機械科へ入学し、福知山に移り住んだ。
◎原子爆弾に付いて一言
  大森 実氏の「戦後秘史」その他、書籍によると、投下された爆弾は
  ☆直 径 120cm
  ☆高 さ 430cm
  ☆重 量   5トン
  ☆爆 薬(と言えるか?)ウラニューム235、ウラン爆弾
 昭和20年7月アメリカがニューメキシコで始めて原爆実験に成功し、一部改良の上、日本へ運び
 投下したと言われモデルチェンジされたものは一度も実験していないそうでブッツケ本番であったようだ。
 アメリカも「壱か、八か」戦争の早い終結をと考えていたのだろう。
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<広島平和記念資料館にて撮影>

◎原爆開発は日本も密かに、盛んに行って居たらしい。
理化学研究所の仁科芳雄博士を中心として進められていたようで、東大の学生さんだと思っているが、大段と言う人が、実験中爆発で不慮の死を遂げ、学位を授与と報道された事もあり、友人の兄がどうも新型爆弾開発中だったらしいと言っていた様だった。
又ドイツは昭和20年5月連合軍に降伏しヨーロッパ戦線は戦いが終結したが、ドイツの潜水艦Uボートが日本に向け密かに、ロケット・レーダー・原爆など兵器の設計図の輸送をしていたらしいが、本国の降伏によりそのUボートも、アメリカ軍の港に投降し設計図はアメリカに接収・盗まれ、日本には着かなかっつた。
アメリカはこのUボートの行動・積み荷の情報を既にキャッチしていた様子であった。
この原爆の他国の情報は、アメリカも必死で追いかけていたらしい。
もしと言う事が許され日本がこの設計図を入手して原爆を完成させていたら、東・南・シナ海や、アジア地域が彼我の核爆弾の落とし合いで、核の墓場となっていただろう。
考えてみると、他人が考えることは、同じ時期に自分も考えておる様で、ほんの一歩先へ進む、機先を制することが肝心である。戦いも、商売も同じで、比較するわけではないが人と同じようにピストン買うとくなはれ、ピストンリング買えでは、ウダツも上がらん。
社外品を徹底排除・・・大分横道に外れたが
◎アメリカ軍はリトル・ボーイ(赤ん坊)と名付けられたニックネームの原爆を、テニアン島から、エノラ・ゲイと呼ばれたB29爆撃機が運び広島へ投下・爆撃したのである。
 ・・・自分の生徒・学生時代の小さい戦国時代の経験とでも名付けよう。
昭和初期、歴史年表では支那の山東半島への出兵(3年)や、柳条溝事件(6年)が起こり、支那との関係が大分怪しくなっていた様だ。又満州国も日本の手で建国され、明治時代より温存されてきた、富国・強兵の思想が顕在化し、社会の体制・教育面でも強化され共産主義者への弾圧が日増しにきつくなり、軍国路線をひたすら歩み出し結果、昭和12年支那事変と称する日中戦争が勃発し、南京陥落ポツポロポイノポイ(意味不明)と騒ぎ戦勝気分を叩かめる為、祝いの提灯行列があったのを覚えている。
 私はこんな時代背景の、昭和3年大阪港区(現大正区)で生まれ軍国化路線のトロッコに乗せられ成長し小学校・そして中学校に入った年の暮れ12月8日第2次世界大戦に突入した。東南アジアの植民地の開放・独立により、大東亜共栄圏を樹立するいわば聖戦だと言われ「大東亜戦争」と呼ばれ、年少で訳も分からない儘、協力させられ熾烈な戦いに巻き込まれた。
 学徒動員では防空壕ほり、河内長野か富田林の山へ植林に行き、住友金属の此花工場では金属の選別の時、外国の鉄砲玉が珍しくポケットへ入れて帰ろうとして、クラス全員が憲兵に殴られたり、そして最後は枚方の兵器工場などいろんな事をやらされた。
同級生で、動員中旋盤に巻き込まれて死んだもの・工場への途中に爆撃に遭い直撃弾を受けて亡くなった人・不本意だったと思うが、学校の割当で海軍の予科練に応召し戦死した者等々であったが、当時5年制の中学を無理やり4年で放り出しザラ半紙にガリ版で刷った卒業証書を貰い動員時の給料も貰っていない儘、広島へそして、ピカドン!
「戦争は嫌いだ」と思いつつも、国・人・そして夫々、の長い歴史が、限りない欲望を膨らせ武力でと、戦いを引き起こす。
2000年の人類の歴史には、2000回以上の戦争が記録されている様で、人・物を消耗させながら、防げたであろう悲劇を今日まで引っ張ってきたし、今後も不幸な出来事を引き起こすだろう。
 ・・ 矛 と 盾 の繰り返しは、科学を常に進歩させてきたし、今後もますます拍車をかけてゆくだろう。
然しそのうちに地球を爆発させかねない。恐ろしい!

こんな事を考えながら・・・過ぎ去った核戦争・・・人類が始めて遭遇し経験した不幸な出来事を、私自身風化しない内に子供達に書き残そうと した。
 ・・戦争があっても核爆弾は誰も使わないだろう。
 ・・多分もう誰も核爆弾被災の経験はしないだろう。
 ・・ノー モアー ヒロシマであってほしい。
昭和40年8月15日
於 泉大津市北助松 助松団地

この原稿は当時の雑文をその儘ワープロで叩いた
文中、人名・地名に誤りがあるかもしれないけど
被爆後20年経過のため許してください。
平成4年11月3日

最後の1ページ前の学徒動員の下り山林への植林云々の、地名は
河内の弘川寺だったそうで友人より連絡がありました。
西行法師終焉の土地だそうです。
お礼を申し上げると共に訂正いたします。

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<ノーモアHIROSHIMAを願ってオバマさんも来られました>


2016-08-05 22:39  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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